|
その日家に帰ると、母はいつものように布団に横になっていた。いつものことなので特に気にはしなかったが、夕飯を食べた形跡もなかったので声をかけた。 だが母からの返事はなく、不審に思って母に近づくと、顔を土気色にして意識を手放していた。 俺は初めて救急車を呼んだ。どうすればいいのかパニックだった。救急隊員も俺を落ち着かせようと色々話しかけていた。だが、何を言われ、何を聞かれ、それに何と答えたのか…まったく覚えてはいない。 そして病院に着き、母が治療を終えた後、俺は先生に呼ばれた。その表情から、相当悪いのだろうなという予想はついたが、その口から発せられた言葉に俺は耳を疑った。 「あと1ヶ月って…どういうことですか」 「最長で1ヶ月ということです」 母の余命だった。 母の病名は難しくて覚えていないが、不治の病というわけではなかった。だが、何にしても遅すぎたのだ。もう、処置のしようがなかった。母がこのところずっと家にいたのは、仕事をしていなかったからではなく、仕事ができなかったからだったのだ。それを、こんな最悪といえるような状況で知った。 平日は仕事と学校があり見舞いにはこれなかった。土日は、仕事が終ってから病院に顔を出した。入院費は、はっきりいって大きな負担になる。だが、病院から市の補助を受けることができるときき、その補助金で大分楽にはなった。 だが、医師の宣告した余命1ヶ月を全うすることなく、母は病院のベッドで息を引き取った。俺は泣くこともできず、ただそこに立ちつくすことしかできなかった。それを見かねた看護婦さんが俺を廊下の椅子へと連れていってくれた。何とか俺を落ち着かせようと、色々話しかけてくれていたが、はっきりいって耳になんて入ってこなかった。愛情で結ばれた親子というわけでもなかったのに、死んだらやっぱり悲しくて寂しくてやりきれないもんなんだなぁと、まるで他人事のように考えていた。だから、看護婦さんが言った一言に反応するのに随分と時間がかかったんだ。 その言葉は、なぜか頭にまで届き、随分時間がたってから(といっても2、3秒だろうが)理解された。 「今、なんて・・・?」 「だから、あなたのお母さんは、入院してからいつも退院させろってきかなかったのよ。お金なら、市から補助がおりていますからって言ってもきかなくて。あなたに負担をかけまいとしてたのね」 「そんな……」 「愛されてたのね、お母さんに。あなたが立ち直らないと、お母さんも安心してあの世にいけないわよ。とはいっても今はまだ辛いだろうから…心の傷を一日も早く治してお母さんを安心させてあげなさい。それが一番の親孝行よ」 そう言って看護婦さんは去っていった。だが俺はその場から動けなかった。母がそんな事を言っていたなんて…俺の事を気にかけていたなんて……。 それからどうやって家に帰ってきたのか覚えていない。葬儀などは、母の親戚が取り仕切ってくれた。本来なら俺がやるべきだったんだろうけど、俺は使い物にならなかった。 簡単な葬儀が終わって、一息ついた頃、俺は家にある母親の遺品の整理をしていた。いつまでもこのままというわけにはいかなかったからだ。思えば、母親の持ち物など見たことがなかった。 母親の使っていた小さな机の引き出しを開けると、細々とした小物がいくつか入っていた。それをどけると、下からはアルバムが出てきた。俺は今までアルバムを見たことがなかった。母にアルバムがないのかときくこともなかった。きけば自然と父のことにも触れなければならないのではないかという気持ちがあったせいかもしれない。 どんな写真が写っているのかと、恐る恐るアルバムの表紙を開いた。そして声を失った。 写真には全て俺が写っていた。母に抱かれた写真や、母の実家での写真など、撮ったことを覚えている写真は一枚もなかった。写真は、小学生になる頃からは一枚も撮られていなかった。そのせいもあって、俺はこの家にアルバムがあるなど、俺の写真があるなどこの時まで思ってもいなかったのだ。 赤ん坊の俺を抱いて、幸せそうに笑っている母は、俺の知らない母だった。その笑顔は、俺が思い描いていた「母親の顔」そのものだった。 俺はアルバムのページを繰り続けた。そして写真がなくなったページには、メモ用紙程度の小さい紙が挟まっていた。折りたたまれた紙を開くと、そこには母の筆跡で言葉が綴られていた。 ―――雅樹を身ごもったとき、堕ろせと言われました。彼は家庭のある人だったから。でも、私に宿った命を、消すことはできなかった。このおなかの子を抱きしめたいと思った。どうしてもこの子が欲しい手と思ったの。だから、彼から逃げて二人で生きていこうと決心しました。でも私は不器用で、雅樹が成長していくにつれてどう接すればいいかわからず、逃げるようになってしまいました。ごめんなさい。でも、あなたを生んでよかったと心から思っています。いいお母さんになれなくてごめんね。生まれてきてくれてありがとう。 母・美沙子 反則だ。自分の死期を悟って、こんなメモだけ残していくなんて。 俺は、メモを握りしめながら嗚咽を漏らすことしかできなかった。 あれから何年経っただろう。今の俺は、母さんにとって誇れるような息子になれているだろうか。母さんが、どうしても欲しいと思ってくれた俺のこの命。精一杯生きて、それを母さんへの親孝行にしようと思う。そして天命を迎えたら……俺と母さんは、本当の親子になれるかな。 Fin. |